ここ暫く更新が出来ない状態が続いていた。
中々、簡単に書けるような中身ではないなと色々と何を書こうか見切り発車で目次を立てるモノではないのだと反省をする。
これはこれで何を書こうかと楽しめるモノなのかとも思う。
「遊び」をしているように思う。
と、分かりにくい話は置いておくとしよう。
遊びの文献においてはホイジンガの著とロジェ・カイヨワの「遊びと人間」講談社の中身を知る事が一つの手がかりになるように思いそのページを捲る事にした。
演奏という行為、音楽という行為が何故人類にここまで浸透したのか。
クラシック音楽の分類がどうしてここまで人の心に触れるものであるのか。
人間の遊びにおける根本的動機を4つの体系に分ける事が出来る。
「競争」「偶然」「模擬」「「眩暈」
音楽においても上記の四つのシチュエーションが存在している。
この全てを論じていたらキリがないので明日にでも使える可能性があるものは恐らく眩暈ではないだろうか。
「眩暈」というのは一体どういう事なのか。
著の中でイリンクス(眩暈)と呼ばれる言葉の意味を追いかけるだけで更新に随分と間が空いてしまうので諦めた。
しかしながら、どのように考えても音楽を聴く行為においては眩暈と同じなのであろう。
上記4つの体系分けが人類の遊びにおいて全てかどうかの検証は興味がある者が行えばいい。
間違いなくこれを知るだけでも全く違う演出を行う事が出来る。
人間の機能を良くも欺き、幸福を感じさせる事が出来るのだ
98%のリピート率を誇るディズニーにもこの眩暈はよく使われている。
そして「模擬」と「眩暈」のどちらにいるのかはとても揺らぎやすいように思う。
お客様をこちらの世界に引き込むまでは眩暈、引き込めたら模擬のように解釈をしている。
その大小も音楽と同じ様に存在はしているだろう。
これについて恐らく、演奏中誰にでも明日から使えるテクニックは「表情」の使い方なのだと思われる。
口を塞がれるインストゥルメンタル楽器においても、とても有力なのだと思う。
ピアニストにおいても自分にどのようにお客様を同調させられるか。
視線を合わせる時間の長ささえも、時に演奏中だけでないプレイ(演出)が観衆をその世界へと引き込む事になるだろう。
催眠術の誘いをするつもりもないが人への快・不快をどうコントロールするのかが鍵なのではなかろうか。
この点において歌は表情筋と視線を幾つかの楽器奏者に比べ自由に扱える分、有利なのかもしれない。
また、歌の分野に携わる人間が自然とそれを理解しているのか上手く扱う人間が多いようにも思っている。
表情と視線のコントロールをするだけで貴方のファンが増えるのでもし、演奏家がこれを見ているのなら騙されたと思って試してほしい。
貴方は人の目を見てプレイ(演出)を出来ているだろうか。
その先にきっと貴方の望む「眩暈」と「模擬」の遊びの世界が広がっている事だろう。
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